2006年12月19日 (火)

別れのとき

 父の認知症を腎臓の主治医にもわかってもらうためにも、3月に頭のMRIをとった。そしたら動脈瘤がみつかり、脳外科の先生によると破裂可能性は3%くらいだということだった。手術対象の大きさではあったが、本人の希望もあり、様子見をすることになった。手術をして認知症がよくなるわけではないし、父にとって今の時間が大切という考えに、私も弟も、そして16年お世話になっている父の心臓の主治医の意見が一致していた。

 父が来て、どうも下の娘は心配からか体調を崩すことが多くなった。しっかりした優しいおじいちゃんがボケボケで、そんな姿を孫にさらけださなければいけない状況は父にとってもかわいそうだなとも思っていた。夏休みの間だけでも、母が入所している老健を利用しようとケアマネとも考えていたのだが、6月17日に下血検査のために入院となってしまった。その時は心臓の状態が悪く、また、各内臓も働きが衰えているとのことで、いつ急変するかもしれないと言われ驚いた。そんなに悪い状態だとは思わなかった。それならば心臓の主治医の病院に行けばよかった?そんな思いをした。2週間くらいして状態が落ち着いたのだが、胸部に大動脈瘤があるために腸の検査はできないと判断され、CTなどの検査では悪いところはみつからないので退院して通院して欲しいと病院側は言ってきた。が、この入院で老健の利用話は流れてしまい、父の状態も悪いなりに落ち着いているというだけで、暑くなるときに家に帰るのには大きな不安があったので、療養型病床を探すまで退院を待ってもらうことにした。病院の相談室からはグループホームを薦められ、さっそく施設長さんと打ち合わせをして、退院後の父を入れてくれる話がまとまった。私はこのグループホームがとても気に入り、ここならば父も楽しく過ごせるし、私たちも父と少し距離をおけるので、笑って接していけると楽しい未来を描いていた。契約書にもサインをし、準備が整った。8月1日退院、老健にいる母も交えて昼食をとり、午後2時入所というスケジュールが決まった。

 その電話は、夏の暑さも一息ついた曇り空の7月31日の朝7時過ぎだった。病院から父の容態が急変し、吐血して意識がないという。何?退院できるほど落ち着いていたのではないの?何が起きたの?子どもたちはそれぞれ部活や学校のプール指導がある日だったが、自分たちで用意して行くように頼み、病院へ向かった。通勤渋滞時間にもかかわらず、わりとすんなりと病院についたのだが、病室の父は、、、ずっと心臓マッサージをされていても心電図は横一直線だった。朝6時半ごろに吐血しいる父を看護士が発見後、1時間余り蘇生処置をしていても効果がなく、私の到着を待って、死亡確認となった。

 平成18年7月31日午前7時48分 父 74歳 永眠

 解剖の結果、死因は胸部大動脈瘤破裂ということだった。。。

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2006年12月15日 (金)

父が来た

お~、あれよあれよと、今年もあと2週間余り・・・私の父を連れてこようと決めて1年になる。。。今年の2月からの父を振り返ろう。。。

 大妄想。実家を離れてしばらくして、ときどき夜になると土木事務所の人と相談しに行くために市長が迎えに来るからと言って家を出ていくのだった。また、弟から夜中の3時過ぎに、今、お父さんが外にいるという電話があった。ベッドを見に行くと、おとなしく寝ていた。???確かに3時前に外に出たらしく、でも、息子は来ない。だから、携帯で電話をしていつ着くのか聞いたというのだ。まだ、そんな時間じゃないことを説明し、オートロックの解除を教えてもらい、なんとか部屋にこっそりと戻っていたということだ。わけわからん!認知症の教科書通り、天気の悪い日には大妄想大会だった。

 服を着る順がわからない。一人暮らしをしているときから、ちゃんとパジャマに着替えているのだろうか?服の組み合わせが変。というのは気にしていたのだが、同居してみて、父は服を着替えるときやその順番がわからなくなっていた。毎朝、洋服を着る順に出し、寝るときも着る順においておく。時間がわからず、何時に○○してねと言っておいてもできない。朝、子どもたちが学校へ出て行くときがベッドから起きる合図。私が並べた順にゆっくり着替える。私が朝食に呼ぶ。私が仕事に出ている間は、母が入所している老健やデイサービスに行っているので、お迎えが来るまでに顔を洗い、薬を飲み、部屋で待っている。私が出て、30分ほどでお迎えが来ることになっていたので、ちょうどいい具合の自立行動になっていた。2つの施設に通っているので、ときどき、かばんを間違えることはあっても、大きな失敗はなかった。

 水分制限の苦労。父は腎臓が悪いために水分制限があった。1日1000ml。水分は与えられたものだけにするようにいつも言うのだが、顔や手を洗うときにごっくんしていたり、ごみ箱からペットボトルを持ち出して、水を入れ、自分の部屋に隠して飲んでいたり、みつけては怒りまくる私であった。何度説明しても、うんうん、悪かったというだけで、隠し飲みはやめられなかった。

 究極の事件。5月の連休に、上高地に日帰りで行くことになった。休みはいつも寝ることしかしない父も行きたいというので、連れていくことにした。子どもは河童橋から明神池まで歩いたことがないので、ハイキングに行きたいのだけど。。と父に言ってみたら、歩くのは嫌だから河童橋で待っているというのであった。昼間に異常行動を起こすことはなかったので、外で日向ぼっこができる場所や、お金を持たせ紅茶が飲めそうな五千尺ホテルのラウンジやおみやげ屋さんを教えて河童橋を出た。明神池から戻る途中、あと15分くらいのところで携帯がON!メッセージは派出所から。父が五千尺ホテルのラウンジで6人分の席をとって注文もとらずに30分座っていたのだというのだ。その異常さにホテル側が怒っておまわりさんを呼んだという始末。父は間違った緊張からか、自分がお金を持っていたことも忘れていた。留守番大失敗。。。五千尺ホテルさん、ごめんなさい。でも、ホテルさん、あんなに怒らなくても、上手に父を追い出してくれればよかったのにぃ。私たちが戻るまでラウンジに居なさいと言ったわけじゃないんですぅ。。。

 とまぁ、細かいことまで書き出したらまだまだ出る認知症。まったく人が変わった父にどう生きる喜びを見出すのか、いろいろと考えてもわからない。笑うことを忘れてしまっていた父だった。

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2006年8月22日 (火)

これまで

すご~い久しぶりです。

 何から話していいやら。。。やっぱり、父の話を残そう!

 昨年の5月、父は腎不全から水が体に溜まり、心不全を起こして入院していました。体から水を抜く、透析のような治療のおかげで無事に退院となりました。7月19日のことでした。しかし、父の認知症が顕著になってきていました。退院して間もないころに、処方されている睡眠薬20日分を全て飲んでしまい、救急車で運ばれるということもありました。主治医からは一人暮らしは無理ですよ、と言われました。が、すぐに対応できず、弟と交代で通って看ることにしていました。介護認定も受け、1日おきに母が入所している老健に通い(行きは弟、帰りは私)あとの半分は送迎付のデイサービスに通って、老人配食サービスを利用し、苦肉の策をもって父の生活を支えました。

 寒くなってきて、父の行動は益々心配になりました。ときどき、夜中に電話をかけてくるし、ファンヒーターの灯油が異常に減っているし、薬の減り方も異常。。。火事で一人暮らしのご老人が亡くなられたニュースがあると、他人事じゃないなと思っていました。一度脳神経科で診てもらったこともありました。アルツハイマーではなく、脳梗塞による脳血管性の認知症ということでした。。。ある日、私の旦那が「うちへ連れてこよう。」と言ってくれました。父も住み慣れた家を離れることを了承して、今年の2月に父は我が家に来ました。

 さぁ、来てからは、父の認知症と直面することになりました。わかっていても、妄想・徘徊・順序がわからない・・・などの異常行動に、腹を立てては反省する日々でした。このことは、また別にゆっくり書き記すことにして。。。

 6月17日、数日前から下血があり、量の多さに異常を認めたデイサービスの看護師さんの薦めもあって、すぐに病院へ連れて行きました。ちょっと診てもらうだけのつもりだったので、父が16年通っていた病院ではなく、私の所へ来てから通い始めた病院です。この頃、夏休みの間だけでも母のいる老健に入所させようとしていました。入所どころか、即入院となってしまいました。検査が必要ということで。。。入院?きっと認知症はまた進む。。。老健に入所できる程度の健康を取り戻してくれればいいけど、そうでなかったら、有料老人ホームか療養型病床か。。。そう考えていました。

 続きはまた

 

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