2005年11月 9日 (水)

5万円!!

 平成17年10月から、介護保険法が改正されました。今日、両親の10月施設利用の請求書が来ました。利用者負担額が引き上げられることの説明はあったから覚悟はしていたけど、、、二人合わせて、アップ額5万円!!ちょっと、ちょっとと言いたいぞぉ~。。。健康・介護両保険料だって二人で4万円は払っているし、住民税もバカにならない。まじめにサラリーマンしていた父なので、確かに低所得のレベルではない年金はもらっているけど。。。もう、ぜ~んぶ、利用料や税金にとられちゃってます。職場の人の義両親とも寝たきりで、今回の改正で、彼女の給料分、両親に使わないといけないと言っていました。この現状、小泉時代は、中間レベルの生活をしている人を苦しめる政策だぁと、ふたりでぼやいているのです。。。とりあえずは私に負担はないものの、今後、障害者の医療費1割負担とか他の変な改正があったりしたら、どうなることか。まじめにやってた人が苦しむ改正だけはやめてよね~

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2005年10月19日 (水)

本当に左手だけなんです

3.平成17年5月~7月

毛糸を使って。数字は、ビーズです。曜日の部分だけはマジックテープでとめてあるので、曜日の部分を月によって変えるカレンダーになっています。

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作品 その2

2.入所~平成17年4月に製作

春らしく、赤とピンクに塗った爪楊枝を並べて。桜の花びらは判子です。

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左手だけで

母が老健で、リハビリとして製作している作品を紹介します。左手だけで、一生懸命毎日取り組んでいます。

1.平成16年11月~平成17年1月に製作

赤く塗った木枠の周りに大きなビーズを貼り付けています。緑の部分は爪楊枝を並べています。花はペーパーフラワーです。

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入所

 平成17年3月中旬、母は大きく進歩することもなく、退院しなければいけなくなりました。父もプレッシャーからか心不全を起こすようになり、このまま二人を生活させても共倒れと、誰もが思っていました。

 ところが、入院前に通っていたデイケアにショートスティの打ち合わせに行ったとき、「今なら入所できますよ。」と相談員の方が言われました。その老人保健施設は、生活リハビリをしっかりやっているところで、私たちには大きな救いの手となるお話でした。そこのリハビリの先生もデイケアに来ていたときから母を診ていて、母の高次脳機能障害についてよくわかってくださっており、母には長い時間をかけてリハビリを続けることがいいと言われ、この老健にすべてをお任せすることにしました。母を入所させることは複雑な心境でした。が、発症前の母なら、皆が自分のことで苦労することを望まず、自分のことは自分でやりたがるだろうと、勝手に思い込み、私自身に言い聞かせて、納得していました。未熟な私にとって、母に優しくするためには少し距離が必要でしたし。。。

 平成17年3月28日、リハビリ病院を退院後、そのまま、介護老人保険施設へ入所しました。

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2005年10月18日 (火)

母との生活

平成16年11月・・・月・水・土の午前中は、入院していたリハビリ病院の外来で、PT、OT、STのリハビリ。火・木は、老人保健施設での通所リハビリ(デイ・ケア)。金の午後は訪問リハビリ1時間というプランでスタートしました。家にいるときは、自分の部屋でテレビを見るか居眠り。。。平穏そうでも、バルーン留置状態であるのは大きな障害でした。どこへ行くにも袋付。詰ったり外れたりのビッグトラブルもしばしば。なんとかとれないものかとリハビリ病院の主治医に相談しました。「うちでは、できる限り早い時期にバルーンはとるように訓練するんですが。」と言われました。(えっ?母はどこの病院に入院していたんでしたっけ?)看護師さんから導尿のやり方を教えてもらい、1ヶ月、排尿の量と寝る前に導尿して出した残尿量を量ることになりました。最初のうちは、いい結果とは言えませんでしたが、それでも日に日に自力排尿が働き始め、2週間もしたときは、残尿が100ccをきるようになり、1ヶ月後に合格を主治医から出していただき、ネックになっていたバルーン留置、導尿とお別れできました。12月の終わりでした。

 1つの目標だったことが達成できたのは嬉しかったのですが、母と生活することで母の高次脳機能障害の深刻さがわかるようにもなってきました。とくに注意障害、遂行機能障害が顕著で、おだやかに生活できるように見えるのですが、いつ何をするかわからず、目が離せないことが日に日にわかってきました。そんな母を、父が介護すると言い出しました。一人暮らしの寂しさ、子に苦労をかけたくないという親心、やはり少々の認知症から、大胆なことを父が言い出してきたのでした。父と母との生活のためにも、母にまた集中してリハビリを受けさせ、その効果を期待したいことを病院に申し出て、1ヶ月ほどという期限付きで集中リハビリをすることになりました。平成17年2月半ば、母は再入院しました。

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私の母 その2

 <発症5週間、一般病棟に移って2週間>

 救命医療行為は無くなったので、退院の話がありました。もちろん、寝たきり、経鼻導栄養、導尿の状態で。看護師さんから、リハビリ病院に転院することもできることを聞きました。受け入れてもらえる病院も、大きな苦労もなくみつかりました。

 <発症8週間め>

 リハビリ専門病院へ転院になりました。その病院のベッド待ちをしていた10日ほどで、きざみ食を左手を使って、自力で食べることができるようになりました。水分も飲み込めるようになりました。初めてお茶を口にしたときは、本当においしそうでした。長い時間ではないのですが、車イスに座っていられるようにもなりました。この進歩は、転院時、看護師さんも驚かれていました。「いつか、歩いて会いに来てね。」がお別れのことばでした。

 <リハビリ病院で1ヶ月>

 介助は必要ですが、立つこと、車イスに移ることができるようになりました。

 <リハビリ病院で2ヶ月>

 2週間の排尿訓練をしたのですが、うまくいきませんでした。もう少し続けていただけないか頼んだのですが、「尿意がないんですよ。あきらめるしか。。。」とある看護師さんに言われました。このことばに失望したようで、母は執拗に退院を希望し始めました。発症から4ヶ月にもなるので、少し気分転換も必要かと判断し、母を受け入れる生活をすることにしました。要介護3の母は、私の家で、通院、デイケアの通所、訪問看護のリハビリ生活をすることになりました。

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2005年10月17日 (月)

私の母 その1

 私の母のことを記すことは、このブログを作る目的の1つです。母は、夫を支え、子どもを一生懸命に育た、正に良妻賢母でした。

 本当に暑かった2004年の夏。。。7月13日の朝、特に用事はなかったのですが、私は実家に電話しました。「暑いねぇ。」という私の問いかけに、「あ・つ・・い・・・よ」と、ろれつが回らない母の答え。(母がおかしい。)そう思うと震えてきました。父に救急車を呼ぶように言っても、状況が把握できず埒が明かないので、私が119をかけ、実家がある消防署に回してもらい、救急車を実家に行ってもらうようにしました。そのとき母は、自分で保険証やお財布などを持って、自分で救急車に乗り込んでいました。後から母の携帯の発信記録でわかったのですが、救急車の中で、孫(私の長女)に電話をかけていました。きっと検査と点滴治療をすれば数日でよくなると思っていましたが、、、

 CTやMRIの検査の結果、担当医から「最悪、寝たきりを覚悟してください。」と言われました。脳梗塞。。。それも脱水症状がひどく、点滴をしても血液がまわらないのだと。

 しばらくICUで看護されることになりました。日に日にマヒがひどくなり、母が母でなくなっていきました。涙のあとが、母の無念さを物語っていて、、、でも、ぐっと泣くのをがまんした私でした。誰もどうしようもなく、ただ、見守ることしかできませんでした。誤飲による肺炎も引き起こしました。倒れる2週間ほど前に、手作りのちらし寿司を振舞ってくれたとき、右手に力が入らないからきゅうりがしぼれなかったことを思い出すと、そのときに気が付いていれば、、、いや、あと1日早ければ、、、などと自責の念にかられるばかりでしたが、担当の先生が「言い出したらきりがないですよ。責めるんじゃなく、これからのことを考えましょう。」と言ってくださいました。

 3週間ほどして、脳の腫れもひき、とりあえず危ない状態から脱したということで一般病棟に移りました。右肢体マヒ、失語症、鼻からの経道栄養、導尿、グーグーと寝てばかり、、、ホント、大変なことになってしまいました。

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